投稿

8月, 2018の投稿を表示しています

現代俳句協会三賞続々決定

現代俳句協会の三賞が6月から8月にかけて下記のように決定した。
新人賞と協会賞の作品は現代俳句協会の㏋で読むことができる。
評論賞は月刊『現代俳句』10月号に掲載される。(10月1日発行)

現代俳句新人賞決定 6月30日
第36回現代俳句新人賞  なつ はづき 「からだ」
現代俳句評論賞決定 7月7日   
第38回現代俳句評論賞  後藤 章
        「阿部完市とAIの言語空間について」
現代俳句協会賞決定 8月18日
第73回現代俳句協会賞    清水伶氏の  『星狩』

昭和俳句史年表(戦後編)を読む 2

イメージ
昭和21年の作品を読み比べる 俳人は敗戦直後をどう詠んだか
本丸に立てば二の丸花の中   上村占魚(25歳~26歳)1920年9月5日生まれ

 占魚は熊本の人吉生れである。東京美術学校を卒業している。年譜によると昭和19年に疎開も
兼ねて、群馬富岡高等女学校の図画教師として赴任していて、その地で結婚もしている。
 句集『霧積』の後記によれば教師も一年余ぐらいで辞めて、高崎の岳父の家に仮寓していたとある。
昭和29年に東京に出ている。昭和16年に一度兵役についているが、二十代で戦争に行っていないのは
体が弱く、精神的にもノイローゼ状態であった時期が多いからだったと思われる。  俳句的には上京した昭和14年に虚子、松本たかしに師事している。「徹底写生 創意工夫」が
後年のモットーだったらしいが、ホトトギスで虚子から写生に徹しろと言われていた。
もちろん図画教師であるからその言葉に違和感はなかったのだろう。昭和24年にはホトトギス同人
になっている。  句には「人吉城址にて」と詞書がある。上村は終戦時、高崎から一時的に故郷に戻っていたの
だろう。敗戦後まもないこの時期に城跡に立って二の丸を花の中に発見した喜びは一瞬であった
ろうし、それは俳人として至福の時であったはずだ。この句には写生俳人としての気息を感じ取れる。
人吉市は熊本市の南に位置するが、陸軍の基地があった熊本に比べて戦災は少なかった。
昭和20年11月の第一復員省調べでは、熊本空襲の罹災死傷者数1893人に対して人吉は2人であった。
故郷は戦災をさほど受けていない。その城跡にのぼって上村に様々な感慨が浮かんだはずだ。
20代で戦争に行くことがなく、無事に戦争が終わった故郷にいる自分を上村はどのように納得させた
のだろうか。句はあくまで客観的に処理されている。これが上村の意識的抑制であるのか、写生の
精神がそうさせたのか上村に聞いてみたいところだ。この句は現在、敗戦の事実を映しこむような
重層性を帯びて読まれることはない。ただ美しい句であるにすぎない。それを上村は意図したのだ
ろうか。  俳句の読みとはこれでいいのだろうか。これはこれからも続く問いである。

秋風や黄旗かゝげし隔離船            大場白水郎(56歳)1890年生まれ

 この句の景にすぐに合点が行く人は少なくなったに違いない。隔離船とはコレラ患者などの
伝染性患者を隔離したものだ。戦争が終わっ…

昭和俳句作品年表(戦後編)を読む 1

イメージ
昭和俳句を年代順に共時的に見る試み
戦後編(昭和21年から45年まで)
   3710句を収録




昭和21年

 しぐるるや駅に西口東口  安住敦(38~39歳)1907年7月1日生れ

 この句には田園調布駅と前書きがある。このあたりは渋沢栄一が始めた宅地開発で大正12年から
分譲が始まった高級住宅地である。特に目蒲線の田園調布駅の西側は西洋の都市をまねた構造で道路
は駅を中心に半円形の放射状をなしていた。しかしそのような構造は西口だけで東口側はそれほどの
構想感がない町並である。  ではこの句が作られた昭和21年の田園調布あたりはどのような状況であったのだろう。記録によれ
ば関東大震災も戦災もあまり影響がなかったようである。その状況がわかる地図を下記に示した。こ
れによれば地図の「自由が丘」あたりまでは焼け野原である。田園調布は自由が丘より多摩川に近い
地区にあって焼失面積には入っていない。さすれば昭和21年安住敦が時雨の中を田園調布駅に降り立
った時、町並はある程度残っていたことになる。敦は戦中、疎開の意味も込めて目黒区の柿の木坂に
住んでいた。田園調布の北東約五キロに位置して徒歩ならば1時間ぐらい掛かる位置である。様々な
資料からみて敦の家は戦災をまぬかれた模様である。  こうした状況下で敦はこの句を得た。敦の自解では、待ち合わせの場所をはっきり示さなかった為
に西口と東口で待ちぼうけしたことにより、ふと口から出たという。まるで現在でもあるような事情
でできた句である。句の上では戦災の街並みなんて全然視野にも入っていない。もう慣れきったとい
うことだろうか。敦は早くも21年の1月に久保田万太郎を主宰にして「春燈」を結成している。この
明日へ向かっての情熱が、立ち直りを早め、現在の日常に似た心境となって、駅に「西口東口」があ
ることに俳句的興趣を見出したのであろう。だが次のようにも考えられる。この駅についてほっとし
たから出てきたのではなかろうか。人間の生活感が残る街に、駅に着いた安堵感が、いかにも人間臭
い「駅に西口東口」の措辞を生んだのではないか。人がそして街があるからこそ西口東口がある。
大空襲を受けた東京に奇跡的に残った町並が作らせた一句であったのではないか。

             東口銀杏並木 大正14年当時の写真               西口広場 昭和11年当時の写真               …