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昭和俳句作品年表を読む その11

  水無月や与助は居ぬか泥鰌売  幸田 露伴(79歳 1867年生まれ)   昭和21年に露伴は長野の疎開先から伊豆の伊東に移動し、次に千葉の市川に移っている。疎開前に住んでいた小石川の家には結局戻れなかった。戦中から体中を悪くして眼もほとんど見えなくなっていた。こんな状況下にもかかわらず『芭蕉七部集評釈』を完成させた。完成には土橋利彦という人が様々な手助けをしている。また幸田文、玉親子の献身的な世話があった。露伴は戦中に日本文学報国会の会長に推されたがが固辞した。昭和17年には文学者への戦争協力が呼びかけられたが断っている。開戦の際も「ああ若い者がな、若い者がな」といって戦争を憎んだという。  掲出の句はこのような事情を考えると、市川で詠まれたものであろう。その当時露伴の身の回りに与助といわれるような下男がいた様子は、幸田文の文章にも、評伝の類にも見当たらない。思うにこの句の感覚は落語の「化け物使い」に似ている。人使いの荒い元御家人の隠居と田舎出の働き者の下男とそして化け物たちとの遣り取りが面白い話だが、露伴はこの元御家人そっくりの暴君ぶりだったらしい。志ん生の十八番でもあったから露伴も知っていたに違いない。すくなからず露伴の語り口と落語のそれの似ていることを指摘する評論家がいる。  この句は恐らく想像の句である。江戸の世界に遊んでいるのである。床に臥せって目も見えず、耳も遠くなった昭和21年の露伴は江戸に遊んでいたのである。

昭和俳句作品年表を読む その10

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  あせるまじ冬木を切れば芯の紅 香西 照雄(29歳 1917年生まれ)     香西はラバウルの生き残りである。21年にお復員して高松で高校教師となり竹下しづの女の指導を受け、同年に草田男の「萬緑」創刊に参画している。ラバウル地区の復員は、1946年2月27日に 空母葛城 により開始。同年11月16日の便をもって終了(『戦史叢書 南東方面海軍作戦〈3〉ガ島撤収後』、512~515頁)ということで、香西もこの時期に復員したものと思われる。当時ラバウル地区には約10万人の陸海空の軍人がいた。一大基地なのだがアメリカ軍の飛び石作戦で攻撃を受けず玉砕は免れたが、食糧事情は最悪であった。その中を生き抜いてきて、俳句と出会った。東大を卒業した知識人がどのように敗戦を感じ取っていたのか、この句に現れているだろうか。それは「あせるまじ」の措辞が十分に表し得ている。冷静である、しかしそれだけではない。芯に赤いものがあるのである。まことに嫌味にならない冷静さで戦後に生きる意思が表されている。その後の草田男調の超詰め俳句には見られない清々しさがある。   復員船 空母葛城  飛行甲板の破孔は修理されなかった。 pic.twitter.com/83f8pPQxoi  より拝借
  メーデーの腕くめば雨にあたたかし    栗林一石路(52歳 1894年生まれ) 闘争本部からはつらつと夏の少女たち 栗林一石路 ながい戦争がすんだすだれをかけた   栗林一石路   栗林は昭和16年に治安維持法で検挙、二年間投獄されている。敗戦は長野県の蓼科で迎えている。ジャーナリストでもあり戦後すぐに「民報」という新聞を出す。昭和36年67歳で永眠している。掲句の三句の中では三番目の句に人間としての実感があふれている。その前の二つは栗林の構えとしての句である。これもまた信じたものであり一人の人間を支えた思想から来る句として認めなければならないが、どこかポスター的な偽の明るさがある。この後出てくる西東三鬼の乳房の句と比べてみるとその嘘っぽさが歴然としている。  おそるべき君等の乳房夏来る  西東 三鬼  闘争本部からはつらつと夏の少女たち 栗林一石路  嘘っぽいという感覚に対して反発される方もいるかもしれないが、でも栗林の三句目  ながい戦争がすんだすだれをかけた   栗林一石路 この句こそ俳句形式の真の生かされ方ではなかろうか。栗林にしても重々そのことは理解していただろう。栗林のあとに生きているものとして、時代の中に生きて俳句を詠むということを考えるときこれらの句は多くの示唆を与えてくれる。   昭和30年に<シャツ雑草にぶっかけておく>という句を残しているが、ここにきて思想と俳句という詩形が栗林の中で融合したのかもしれない。

昭和俳句作品年表を読む その9

  沖かけて波一つなき二日かな  久保田万太郎(57歳 1889年生まれ)   久保田万太郎をひとでなしといったのは、志摩芳次郎である。「俳句をダメにした俳人たち」で書いている。ようは芸術家、小説家であっても女房を自殺に追いやるやつは人間として認めないという強烈な批判である。しかし俳句はかなり読ませて名句が多い。鬼でなければ人の心はつかめないのだろうか。この句も亦、戦後半年もたたない人の心境だろうか。火宅の人の心境だろうか。それともすべて虚構の劇的なものとして客観的に自分を見て描いているのだろうか。下記の二句も含めて万太郎の句には死の気配というか、あちら側の世界の雰囲気が漂っている。美しいもの以外価値名無しと思い切れた人間のみがいたる境地かもしれない。そのような人間にとって戦争だって過ぎゆく物の一つでしかない。虚子がそうであったように。どちらも挨拶句が上手いのはこの辺に鍵があるのだろう。 短夜のあけゆく水の匂かな  久保田万太郎 ゆく年やむざと剥ぎたる烏賊の皮 久保田万太郎

昭和俳句作品年表を読む その8

  詩の如くちらりと人の炉辺に泣く 京極 杞陽(38歳 1908年生まれ)   杞陽は豊岡京極氏の当主で華族だった。44年に応召して平壌へ。敗戦後は兵庫の先祖の土地亀岡に住んで、俳誌「木兎」を昭和21年に出した。戦前よりホトトギスで活躍した。杞陽は関東大震災で姉以外の身内を失っている。1958年になってようやくその悲しみを淡々と表現しえている。< わが知れる阿鼻叫喚や震災忌> この人の句のどこかニヒルなところはここから来るのかもしれない。改めて俳句とは不思議な詩だと思う。ホトトギス上では華族様の句も同じ平面で扱われている。身分など超越していることが構造的にも句会というシステムが保証している。だからこそ杞陽は居心地がよかったのではなかろうか。  この句は親交のあった俳人の森田愛子がモデルと言われている。結核で鎌倉の七里ガ浜の療養所にしばらくいたが、三国に帰った。18年には虚子を迎えてく会が開かれ有名な虹の句が作られた。愛子は昭和22年4月1日つまりこの句の翌年に29歳で亡くなっているが、21年六月に小諸の虚子を訪ねている(web週刊長野記事)。伊藤柏翠と母田中よしと一緒だった。この時杞陽もいたのであろうか、杞陽はよく虚子を訪ねていたから可能性がある。しかしこの句の季語は「炉辺」で冬の句である。であるとすればこの句は虚子が昭和20年10月14日に愛子を見舞い、その足で豊岡の杞陽を訪ねている。この句は虚子から愛子の様子を聞いた杞陽が想像で作った句ではなかろうかと推察する。  しかしながら、伊藤柏翠と愛子、虚子のこの時期の関係は誠に美しい。敗戦の前後の時期を純粋に思いあった関係が成り立っていたことが不思議だし、日本の文化のそこ深さではなかろうか。柏翠は昭和21年当時36歳、森田愛子29歳、虚子72歳。柏翠と愛子は1939年鎌倉の結核療養所で会い、1942年愛子を追って天涯孤独の柏翠は三国へ行き同居する。虚子は俳句の共通の師という立場である。