昭和俳句史年表(戦後編)を読む 2

昭和21年の作品を読み比べる
 俳人は敗戦直後をどう詠んだか

 本丸に立てば二の丸花の中
  上村占魚(25歳~26歳)1920年9月5日生まれ


 占魚は熊本の人吉生れである。東京美術学校を卒業している。年譜によると昭和19年に疎開も
兼ねて、群馬富岡高等女学校の図画教師として赴任していて、その地で結婚もしている。
 句集『霧積』の後記によれば教師も一年余ぐらいで辞めて、高崎の岳父の家に仮寓していたとある。
昭和29年に東京に出ている。昭和16年に一度兵役についているが、二十代で戦争に行っていないのは
体が弱く、精神的にもノイローゼ状態であった時期が多いからだったと思われる。
 俳句的には上京した昭和14年に虚子、松本たかしに師事している。「徹底写生 創意工夫」が
後年のモットーだったらしいが、ホトトギスで虚子から写生に徹しろと言われていた。
もちろん図画教師であるからその言葉に違和感はなかったのだろう。昭和24年にはホトトギス同人
になっている。
 句には「人吉城址にて」と詞書がある。上村は終戦時、高崎から一時的に故郷に戻っていたの
だろう。敗戦後まもないこの時期に城跡に立って二の丸を花の中に発見した喜びは一瞬であった
ろうし、それは俳人として至福の時であったはずだ。この句には写生俳人としての気息を感じ取れる。
人吉市は熊本市の南に位置するが、陸軍の基地があった熊本に比べて戦災は少なかった。
昭和20年11月の第一復員省調べでは、熊本空襲の罹災死傷者数1893人に対して人吉は2人であった。
故郷は戦災をさほど受けていない。その城跡にのぼって上村に様々な感慨が浮かんだはずだ。
20代で戦争に行くことがなく、無事に戦争が終わった故郷にいる自分を上村はどのように納得させた
のだろうか。句はあくまで客観的に処理されている。これが上村の意識的抑制であるのか、写生の
精神がそうさせたのか上村に聞いてみたいところだ。この句は現在、敗戦の事実を映しこむような
重層性を帯びて読まれることはない。ただ美しい句であるにすぎない。それを上村は意図したのだ
ろうか。
 俳句の読みとはこれでいいのだろうか。これはこれからも続く問いである。


  秋風や黄旗かゝげし隔離船 
          大場白水郎(56歳)1890年生まれ


 この句の景にすぐに合点が行く人は少なくなったに違いない。隔離船とはコレラ患者などの
伝染性患者を隔離したものだ。戦争が終わって外地にいた日本人、軍人が乗った引き上げ船は
厚生省外局の引揚援護院が指定した14か所ほどの引揚港に入らなければならなかった。
 そこで検疫など済ませて本土に上陸する順序であった。昭和20年の10月1日の別府港、7日の
浦賀港への復員が公式復員の始まりである。兵隊はすぐにでも上陸したかっただろうが、アメ
リカ軍は伝染病などの外地からの持ち込みを水際で止めるために、一定期間沖止めしていた。
 そのうちにもコレラや赤痢が発生すれば隔離された状態になり40日以上待たされることもあった。
伝染病が発生した船は検疫要請の黄色の旗を揚げるのが国際習慣であった。
 この句が詠まれた時期の検疫状況を調べていて、田中宏己という人の『復員・引き揚げの研究』
という本に出合った。田中氏は防衛大学の教授で、米軍資料などから戦後の時期を詳細に調べている。
その本によれば、昭和21年3月末、帰還船V075号は、コレラ患者21名、容疑者20名を乗せて、
中国広東から横須賀浦賀に入港した。この船は二か月間沖合に隔離され、続けて入港した20隻も
保菌者、容疑者が発見され、約7万人が隔離されたそうである。全国から医療関係者が派遣されたが、
浦賀は「地獄の観を呈した」と記述している。
 大場白水郎は東京生まれの人だ。しかしこの句の景が東京近郊である可能性は低い。
上述のように指定された港にしか引き上げ船は入港できないから、浦賀しかないのである。
大場は新聞や人伝に聞いて句を作ったのかもしれない。ペストが流行した時40日間様子を見た
ところから、以後伝染病の隔離は40日間となったようである。昭和21年の前述の様子から類推
すれば、秋風が吹く頃になっても隔離、検疫を示す黄色い旗は掲揚されたままだったのだろう。
この句の背景には、戦地から必死の思いで日本に帰り着いたが上陸できない人々の悲痛な思いが
込められている。飢えと暴力、非衛生の船旅の果てにたどり着きながら上陸できない思いは痛切
である。
 先述の田中の本によれば、南の島々にばらまかれた兵隊は飢えやマラリアと戦ったが、飛び石
作戦で一気に本土を狙った米軍の作戦により、島に遺された日本兵は米兵と戦うどころか見た
こともなく、復員してきて始めて米兵にあった人が多かったという。また中国戦線で戦っていた人は
敗戦を実感しないまま復員した人も多いという。300万人という復員してきた人々や、同じく外地
から引き揚げてきた約300万人それぞれがそれぞれの不幸と思いを抱いて敗戦の祖国の土を踏もう
としていた。それを待つ人々もまたそれぞれの不幸を背負っていたのだ。その人々にこの黄色の旗は
非常なほど事務的な旗だし国の意志だった。大勢の利益のために常に個人の思いは隔離されるのだ。
この秋風には、晩春からの長い時間が抱え込ませた恨みや絶望が含まれている。


投げ苗の田にすわりすぐそよぎをり 
         大橋桜坡子(51歳)1895年生まれ


 戦争が続こうが終わろうが田植えの時期はやってくる。そして黙々とやる。
大橋は滋賀県出身だがこれは大阪近辺の風景であろうか。昭和20年は、気候的にも異常な年であった
終戦記念日が暑い天気の良い日だったので意外に思うが、冷夏で水害、厳冬の歳であったのだ。
国会議事堂前に芋畑を作り、不忍池の水を抜いて水田にしたのもこの時期である。
昭和21年には皇居前で「米よこせ」デモがあった。米国からララ物資が届いて国民の飢餓がかろう
じてまぬかれるようになったのが昭和21年である。この援護に在米日系人の力があったことは
銘記すべきことである。日本への悪感情は消えていない米国で起こした運動であった。



 このような状況下で大橋は田植えを目にしたのであろう。ホトトギスで鍛え上げた写生の眼は
的確である。まとまった早苗を田んぼの方々にほおって、そこから田植えをしやすくするのだが、
そのまとまった早苗の束が田んぼに落とされたとたんに戦ぎ始めたというのである。
この句には一切の上記したような時代状況は見えない。「紅旗征戎吾ガ事二非ズ」定家の言葉を
思い出す。この言葉は定家19歳のものでいささか気負ったものがあるかもしれない。大橋はこの句を
作った時51歳である。定家の様な思いがあったわけでもなかろう。ではなぜ俳句はかような過酷な
状況下でも、この句のような穏やかな表現にとどまるのであろうか。それは人間の心は瞬時に様々
なことを思うからで、その一瞬の心のさざ波の集積が時にして感情として表に現れることはある。
俳句はその何万分の一の瞬時を表す文藝なのだ。例えていえば、全体が戦争のドキュメンタリー
映画の連続フィルムであっても、その一部、一カットには一切戦争に関係ないカットもあるはずで
ある。俳句はそのカットなのだと思えばいい。大橋は最悪な食糧事情下にあってもこの句を得たこと
に満足したに違いない。だが作られた時代を丁寧に見てみれば、この句の恐ろしさを違う意味で実感
するに違いない。人が生きるというすさまじいエネルギーである。生きるために食料を作るという
ことである。しこうしてかつそこに一句をなす風流があった。心の強さである。


二科を見る石段は斜めにのぼる 
           加倉井秋を(37歳)1909年生まれ


 加倉井は東京美術学校建築家の卒業生である。弟は画家である。
 昭和21年にははやくも様々な芸術団体が活動を再開している。そのなかで文部省主催の第二回日展
(第一回は春)が10月16日から11月20日まで開催された。実はこの日展へ出品するかしないかで
二科会で揉めている。8月31日に開かれた総会で官展=日展に参加する派と、あくまで官展には参加
しないという派に分裂している。二科会は同年9月展覧会を再開し第31回展覧会を開催している。
会場は旧東京都美術館(昭和18年までは東京府美術館という名称)である。
写真をみるとこの句のように立派な階段がある。この階段なら斜めに登れる。



 全国的な大きな展覧会を開ける会場は戦前まではここしかなかった。であるから終戦間もない
時期に展覧会を開ける会場はここしかないといっていい。
 この斜めに登るという措辞にいかほどの感慨が込められているかわからないが、自由な気風の
二科会の画風にどこか通じるところがある。真直ぐのぼるのでは官展の感じがする。
ところで、この日本文化の再生への力はどこから出てくるのであろうか。俳句界においても
昭和21年には、130の俳誌が創刊されたという(『昭和俳句作品年表・戦後編』現代俳句協会による)

占領軍の文化政策が始まる前と言っていいだろう。昭和21年に文部省の芸術課長に今日出海がなり
芸術祭を発案した。予算もないながら大いにやれと言われて始まった。
 戦争に負けて暮らすのが精いっぱいの時に、同時に人は芸術を求めている。これは芸術というのは
自己表現の欲求が源泉であることの証だ。食欲、性欲、睡眠欲の三つが人間の基本欲望だと言われる
が、それは怪しいことになる。
 落語の新宿末広亭は昭和21年に再建されている。藤原歌劇団は同年1月に帝国劇場で「椿姫」
を演じている。バレエ「白鳥の湖」の初演もこの年である。チャイコフスキーのオーケストラ用
スコアが日本にない状態で指揮者の山田和夫がピアノのスコアから書き起こしてやり遂げたという。
この情熱はどこから来るのか。

 
 「音楽之友」昭和21年10月、11月合併号から

 スポーツでも野球、サッカー、ラグビーなども昭和21年には公式試合を始めている。
しかし剣道、柔道などは戦争加担として許されるのが遅れている。アメリカへの忖度がどこかに
働いていたと言えるであろうか。しかしこのことと人々の表現欲は別である。生きるということ
に必要なものは何かということをはっきり教えてくれる一句でもある。

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