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怒涛の東海ゼロ句会&勉強会報告 BY 赤野四羽

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2018年10月13日(土)に現俳協青年部のゼロ句会の東海出張版、東海ゼロ句会 が犬山市にて開催されました! まず午前10時に名鉄犬山駅前に集合。現俳協東海支部青年部長の廣島さんが点呼をとり、吟行ルートを確認して出発となりました。 晴天に恵まれ、一行は犬山城下へのルートをたどります。それぞれの句材を採集するため、三々五々と小グループや個人に分かれていきます。 途中にあったアニマルカフェの前にはなぜかひよこが…。また某俳人はスカジャンを煌かせて句材採集へ。 城下には魅力的な飲食店や古い家屋が並んでいます。犬山ゆかりの俳人、蕉門十哲のひとり内藤丈草の碑文もあり、歴史談義も盛り上がります。 また、ちょうど 鈴木しづ子生誕100年記念「第1回 大学生俳句選手権大会」が開催されており、華やかなポスターやのぼりが城下を彩っていました。覗いてみたいところでしたが、スケジュール的に厳しく、そこはやや残念でした まさに秋晴れの空、犬山城が映えています。 天守まで上るもの、上らず散策するもの、神社へと向うもの、さまざまなルートがあります。 昼食を各自とって、句会会場の犬山国際観光センターへ集合となりました。13時までに一人四句を投句します。 その②へ続きます。 続きです。 13時からの句会には23名が集まり、なかなかの重厚な様相に。三重や滋賀、京都、静岡、なんと東京からも参加者がありました。 少々お酒が入っている方々も…まあこれは吟行の醍醐味でもあります。青年部廣島さん、本数制限をしておけばよかった、とかなんとか…。 司会進行は神野紗希さんと黒岩徳将さん。 90句程度から5句選句します。 ストレートな吟行句から、幻想的な句、奇抜な取り合わせなどバリエーション豊かで、楽しくも悩ましい時間となります。 全部紹介したいところなのですが、さすがに多いのでかいつまんで… 得点上位句は以下のようになりました。 しづ子艶やか栗どうやって食おうか  赤野四羽 7点(特3) ひよこ飢えて硝子をつつく露の秋   神野紗希 6点(特2) 私より小柄な鎧椿の実        神野紗希 6点(特2) ジャンパーの

第55回全国大会in京都 BY章

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第55回全国俳句大会が10月27日京都ANAクラウンプラザホテルで行われた 中村和弘会長の挨拶 約200名参加 主催者:吉田成子関西現代俳句協会会長の挨拶 協会三賞受賞者 記念講演:竹田美喜氏(松山市立子規記念博物館長) 懇親会 俳句大会の表彰も行われたが、詳しい内容は協会HPに詳しい。 ここでは、いち早く、当日行われた記念講演の内容について若干報告しておきたい。詳しくはいずれ『現代俳句』に発表される。 講演者は松山市立子規記念博物館長 竹田成子氏 演題は「明治28年の子規と漱石 -愚陀佛庵の52日ー」 明治28年8月27日から10月17日までの52日間の出来事の話。 当時英語教師として松山に赴任していた漱石の下宿に、子規が日清戦争で喀血した身を寄せて保養した期間の出来事の話であった。 この濃密な奇跡的時間を時系列で追っておこう。 1867年 生誕 1890年 東大入学 1891年 俳句分類始める 1892年 獺祭書屋俳話書き始める 1893年 日本新聞に俳句覧 1894年 「小日本」の編集責任 松山で松風句会始まる 日清戦争始まる 1895年 日清戦争従軍、喀血、神戸入院      松山へ帰省。8月27日漱石の愚陀佛庵に転がり込む(実家はすでに売り払って      なし)10月17日まで漱石と一緒。10月31日子規東京へ帰る。『俳諧大要』 1896年 3月漱石東京へ帰る 4月漱石、熊本へ 1898年 『歌よみに与ふる書』 1900年 漱石英国留学 1901年 漱石、『文学論』執筆 1902年 子規死去 つまり、二人の怒涛の人生のたった52日間だが濃密すぎる時間であって、日本の文学にとって計り知れない影響を与えた1248時間であったことになる。 竹田先生の当日講演資料から 柳原極堂談として 「ある日、自分がいつものように愚陀佛庵にいってみると、隣の部屋で子規と漱石が話をしていた。おたがいに、東京に出て大いに日本の文学を興そうではないかと、抱負を語り合っているのであった。自分はふすまのかげでそれを聞いていて心を打たれた。この時のふたりの誓いがやがて実現されたのだから、愚陀佛庵は、日本の新しい文学の発祥地として大切にされなければならぬ」(