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怒涛の東海ゼロ句会&勉強会報告 BY 赤野四羽

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2018年10月13日(土)に現俳協青年部のゼロ句会の東海出張版、東海ゼロ句会 が犬山市にて開催されました!
まず午前10時に名鉄犬山駅前に集合。現俳協東海支部青年部長の廣島さんが点呼をとり、吟行ルートを確認して出発となりました。

晴天に恵まれ、一行は犬山城下へのルートをたどります。それぞれの句材を採集するため、三々五々と小グループや個人に分かれていきます。


途中にあったアニマルカフェの前にはなぜかひよこが…。また某俳人はスカジャンを煌かせて句材採集へ。 城下には魅力的な飲食店や古い家屋が並んでいます。犬山ゆかりの俳人、蕉門十哲のひとり内藤丈草の碑文もあり、歴史談義も盛り上がります。



第55回全国大会in京都 BY章

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第55回全国俳句大会が10月27日京都ANAクラウンプラザホテルで行われた


中村和弘会長の挨拶 約200名参加

主催者:吉田成子関西現代俳句協会会長の挨拶

協会三賞受賞者

記念講演:竹田美喜氏(松山市立子規記念博物館長)

懇親会
俳句大会の表彰も行われたが、詳しい内容は協会HPに詳しい。
ここでは、いち早く、当日行われた記念講演の内容について若干報告しておきたい。詳しくはいずれ『現代俳句』に発表される。
講演者は松山市立子規記念博物館長 竹田成子氏

演題は「明治28年の子規と漱石 -愚陀佛庵の52日ー」
明治28年8月27日から10月17日までの52日間の出来事の話。
当時英語教師として松山に赴任していた漱石の下宿に、子規が日清戦争で喀血した身を寄せて保養した期間の出来事の話であった。

この濃密な奇跡的時間を時系列で追っておこう。
1867年 生誕
1890年 東大入学
1891年 俳句分類始める
1892年 獺祭書屋俳話書き始める
1893年 日本新聞に俳句覧
1894年 「小日本」の編集責任 松山で松風句会始まる 日清戦争始まる
1895年 日清戦争従軍、喀血、神戸入院
     松山へ帰省。8月27日漱石の愚陀佛庵に転がり込む(実家はすでに売り払って
     なし)10月17日まで漱石と一緒。10月31日子規東京へ帰る。『俳諧大要』
1896年 3月漱石東京へ帰る 4月漱石、熊本へ
1898年 『歌よみに与ふる書』
1900年 漱石英国留学
1901年 漱石、『文学論』執筆
1902年 子規死去

つまり、二人の怒涛の人生のたった52日間だが濃密すぎる時間であって、日本の文学にとって計り知れない影響を与えた1248時間であったことになる。

竹田先生の当日講演資料から
柳原極堂談として
「ある日、自分がいつものように愚陀佛庵にいってみると、隣の部屋で子規と漱石が話をしていた。おたがいに、東京に出て大いに日本の文学を興そうではないかと、抱負を語り合っているのであった。自分はふすまのかげでそれを聞いていて心を打たれた。この時のふたりの誓いがやがて実現されたのだから、愚陀佛庵は、日本の新しい文学の発祥地として大切にされなければならぬ」(「『愛媛新聞』昭和41年9月22日「夏目漱石」中」蒲池文雄)

上記のような具合であった。
10月17日の別れ
漱石
見つつ行け旅に病むとも秋の不二
子…

ゼロ句会10月及び兜太ナイト2 報告者 後藤 章

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10月20日(土曜日) 10月のゼロ句会と兜太ナイト2が行われた 於:協会図書室 スケジュールは下記の通り

筆者は都合によりゼロ句会には参加できず、夜の部の兜太ナイト2から参加した。 参加人員は司会と講演者の小松 敦を入れて17名でした。 小松敦は元「海程」の会員で現「海原」会員。

正面右側が司会の黒岩君

写真左端のハンチング姿が本日の講演者小松敦君

初めに自己紹介を兼ねて、各人が黒岩徳将君が選んだ 金子兜太20句の中から、自分が論じてみたい句を発表した。 対象句集は『蜿蜿』と『暗緑地誌』

参加者は多くは今回も40代以下の若手で女性も多い。
彼らにとって兜太はとても魅力的らしい。

『蜿蜿』から

霧の村石を投らば父母散らん

蝌蚪つまむ指頭の力愛に似て
この句に胎児のイメージを重ねて鑑賞した人がいた。

中でも議論が高まったの下記の句の「空の肛門」だ

鮭食う旅へ空の肛門となる夕陽

Y氏曰:田村隆一クラスの荒地派の比喩の破壊力がある
A氏曰:比喩が大胆
T氏曰:シェークスピアの綺麗が汚いではないが美しいものと汚いものの
対比表現が面白い。
小松氏曰:これは比喩ではなくて兜太は本当にその時そう思ったのだ。
黒岩曰:鮭が遡上するイメージと飛行機が空に吸い込まれてゆくイメージが
重ねられている。

章が思うに、兜太の俳句と田村隆一を結びつけた見方は
面白い。どちらも比喩の使い手のお化けだったからだ。
さらに、文明批評的なことを詩に仕上げたのも田村隆一が初めてだが
兜太の作品にも戦争批判をベースにした文明批判的な側面があった。

俺が食う馬鈴薯映して朋の眼鏡

T氏曰:他人への共感力がある句。常に他者へ近づく兜太

三日月がめそめそといる米の飯

Tk氏曰:場面転換が面白い
小松氏曰:兜太はそのまま読んでくれといった。

人体冷えて東北白い花盛り

田中亜美曰:シンコペーションのリズムが心地良い面がある。
M氏曰:涙腺が刺激されてしまう。風土に甘えていない。
兜太自身を客体としてみている感じ。
章曰:東北出身の私としては、兜太さんは東北に何か遠慮している感じがある。
畏怖の念というのかもしれない。関東以南の地に対しては構えがないが
東北にくるとお客さんになっている感じがする。生地秩父から見た蝦夷の地への
特別な思いがあるのかもしれない。
『暗緑地誌』から

暗黒や関東平野に火事一つ

小松氏曰:小松君には兜太はこの句が一番好きだといった。
田中亜美曰:兜太は人そ…

昭和俳句史年表(戦後編を読む)3

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雁なくや夜ごとつめたき膝がしら 桂信子(31歳)1914年生まれ
 女性の昭和21年はどのようなもだったのか。桂信子はこの時点で寡婦である。1939年に結婚して41年に夫は病死した。戦災を大手前高校の近くの大阪市船越町で受け、焼け出されて、彼女の『句文集』によれば、モンペ一枚で豆ばかりほおばって母を入れ女3人で暮らしていた。大阪の空襲は昭和20年3月12日から断続的に8月14日まで続いた。 その後北河内に仮寓した。その借りた家が結構大きく、門までは距離があったので次の句ができた。 閂を掛けて見返る虫の闇  この句と同時に先に挙げた句ができたのである。

 この年の彼女の行動として特異なのは、山口誓子が同年に出した『激浪」という句集を書き写してまでも傾倒研究したことだ。伊丹三樹彦が古本屋を営んでいたので彼から借りて書き写したという。物資不足や世情混乱の時代にこのひたむきさがあったことは驚くべきことである。誓子の句集出版も驚くべきことだが、この時期に自らの芸術追及のために尊い時間を費やしたということが信じられない。多くの人が衣食住に翻弄されてた時期にである。しかしこのことは事実なのである。  唯一、戦後生まれの筆者として理解できるかもしれない点は、決して人間というものは、四六時中生きることばかりのために、時間を費やせない動物なのだということだ。戦後間もないというだけで判断を押し付けてはならないのだ。多様な戦後があったことを知らなければならないのだ。豊かな精神生活を求める時間がそれぞれに僅かでもあれば、何か生み出す人々もいたのである。信子にとっていや俳人にとって、俳句は集中してしまえば時間は短くても何らかの作品を生むことができる詩形だったことは幸いだった。  人から借りた家に仮寓して、一人かこつ夫の居ない寂しさは、昭和21年であるだけに切々と読者に迫る。生きて行くこと自体が不安定なのだから、ましてやという思いである。戦争未亡人はあまた居た、彼女らの気持ちを俳句によって後代に美しく残しえたのは信子しかいなかった。それが貴重である。宇多喜代子はある座談会で、戦中に現在のように女性俳人が多くいたなら、きっともっと銃後の世界が深く描かれていたことだろうと、のべた。まさにこの視点で、桂信子の句は輝いているのだ。この句は第二句集『女身』(昭和30年)に納められている。生涯を気高く生きた信子が、こと…

9月ゼロ句会報告 青年部担当

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ゼロ句会に乱入してみました。

49歳以下限定の句会で、ほとんど20代から30代のメンバーの句会に、禿頭寸前の私が乱入した現場からの報告です。

当日は筆者を入れて7人の参加でした。通常は10人以上ですが、雨模様と体調不良の方が出て少しすくな目。
 投句は持ち寄り5句と席題1句の計6句出し。時間は午後1時半から始めて午後1時50分までに投句。
 今回の席題は「人名」しばり。筆者は思わず「芸名もありか?」と問うて、OKをもらった。



通常は神野紗希青年部長も出席しますが本日は他でお仕事、子育て俳人は忙しい。
 場所は、協会図書室、ゆったり使えます。コピー機があるのが便利。会の運営、司会は青年部の黒岩徳将君。


各人の当日の句を一句づつ披露しておく。
しどけなく重機置かれて夕花野   伊東由紀子

秋天をたどたどしき副審の旗    北山順子

新聞の上に鯊百匹曲がる      黒岩徳将

刈田道片膝を抱く由美かおる    嶋田奈緒

ウオーリーのやうな人かげ阿波踊り 中島潤也

鑑識の番号札が立つ花野      松井真吾

爽やかに醜名輝呼び出だす     後藤 章


句会は和やかに笑いの中に意見の交換をして楽しく終わった。 オジサンの句にも少し点が入ってうれしかった。まだ付いていけそう。

*取材記者の呟き  会の最初に、簡単な自己紹介がある。句歴を聞くと2年から5年ぐらいの方がほとんどだった。しかし句会における意見はレベルが高いと感じた。だからと言って文学高等理論をかざすわけではない。俳句の骨法を踏まえたうえで明確に意見を言うという感じだ。つまり俳句の手法に関する理解度は深いと思った。それだけ真剣度が高いということだろう。季語への理解度も高い。  次にやはり、句の中に使われる言葉が新鮮だった。例えば「帰宅部」「鑑識」「ウオーリー」「副審」「理不尽」などなど。躊躇が無いという感じで句に取り込んでいる。目につくものなんでも句にしてしまう野獣の様だ。この若さが眩しい。  リーダーの黒岩君の会の運営もうまい、みんなの意見をうまく引き出している。  筆者が特に驚いたのは、スマホで写真を撮る音がしたことだった。何をしているのかと見たとき驚いた。句稿を取っているのである。なるほどである。書き写さないのである。披講の場で意見を言うとき、選句を確認するとき、すべてスマホで取った句稿の画面で確認するのだ。ああーだった。隔世の感あり。(後日聞いたら普…

広報部(海外担当)報告

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協会設立70周年事業の一環として広報部は2008年に刊行した『日英対訳 21世紀俳句の時空』を駐日全大使館(155カ国)に寄贈した。  いまでも俳句は国際的に広がりを見せているがより多くの様々な言語を使う人々へも俳句の魅力を伝える切っ掛けになればとの願いである。


*将来英語圏だけではなく東南アジアや南米、中東、アフリカなどから、この本を切っ掛けに偉大な俳句詩人が生れるかもしれないと夢想することは楽しいことだ。(章)

第一回JAZZ句会報告 by赤野四羽(東海地区所属)

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2018年7月28日、東海地区現代俳句協会青年部主催で第一回JAZZ句会が開催されました。
今池のカフェ「あらたると」。

俳人側が兼題による俳句を作句し披講、その句を元にミュージシャンが即興演奏するという形式です。

予め出演予定の俳人(武馬久仁裕、金子ユリ、廣島佑亮、赤野四羽)による披露の後、客席からも次々と飛び入り。16句が集まり、多彩な熱演に喝采が止まず、1時間の延長戦が繰り広げられました。

ミュージシャンは野道幸次(Ts)、武藤祐志(Gt)、大森菜々(Pf)、浅田亮太(Drs)。東海地方を中心に、JAZZのみならず完全即興や異分野コラボを得意とする実力派です。カルテットの迫力のあるサウンド、またソロやデュオでの繊細な演奏で俳句の世界を表現しました。自身もサックス奏者である赤野が飛び入りで演奏することも。

夕立のリスボン行きの切符を買う 武馬久仁裕

殺られるか殺るか蟷螂斧ふるふ 金子ユリ
蟷螂に肩を叩かれ現へと  赤野四羽
蟷螂の恋愛成就は命がけ  旦空(あらたるとのマスタ)
あざやかな人に逢ひけり夕立あと 廣島佑亮

一時の風吹き荒さぶ夕立まえ 八木恒行