第55回全国大会in京都 BY章

第55回全国俳句大会が10月27日京都ANAクラウンプラザホテルで行われた


中村和弘会長の挨拶
約200名参加


主催者:吉田成子関西現代俳句協会会長の挨拶


協会三賞受賞者


記念講演:竹田美喜氏(松山市立子規記念博物館長)


懇親会

俳句大会の表彰も行われたが、詳しい内容は協会HPに詳しい。
ここでは、いち早く、当日行われた記念講演の内容について若干報告しておきたい。詳しくはいずれ『現代俳句』に発表される。
講演者は松山市立子規記念博物館長 竹田成子氏

演題は「明治28年の子規と漱石 -愚陀佛庵の52日ー」
明治28年8月27日から10月17日までの52日間の出来事の話。
当時英語教師として松山に赴任していた漱石の下宿に、子規が日清戦争で喀血した身を寄せて保養した期間の出来事の話であった。

この濃密な奇跡的時間を時系列で追っておこう。
1867年 生誕
1890年 東大入学
1891年 俳句分類始める
1892年 獺祭書屋俳話書き始める
1893年 日本新聞に俳句覧
1894年 「小日本」の編集責任 松山で松風句会始まる 日清戦争始まる
1895年 日清戦争従軍、喀血、神戸入院
     松山へ帰省。8月27日漱石の愚陀佛庵に転がり込む(実家はすでに売り払って
     なし)10月17日まで漱石と一緒。10月31日子規東京へ帰る。『俳諧大要』
1896年 3月漱石東京へ帰る 4月漱石、熊本へ
1898年 『歌よみに与ふる書』
1900年 漱石英国留学
1901年 漱石、『文学論』執筆
1902年 子規死去

つまり、二人の怒涛の人生のたった52日間だが濃密すぎる時間であって、日本の文学にとって計り知れない影響を与えた1248時間であったことになる。

竹田先生の当日講演資料から
柳原極堂談として
「ある日、自分がいつものように愚陀佛庵にいってみると、隣の部屋で子規と漱石が話をしていた。おたがいに、東京に出て大いに日本の文学を興そうではないかと、抱負を語り合っているのであった。自分はふすまのかげでそれを聞いていて心を打たれた。この時のふたりの誓いがやがて実現されたのだから、愚陀佛庵は、日本の新しい文学の発祥地として大切にされなければならぬ」(「『愛媛新聞』昭和41年9月22日「夏目漱石」中」蒲池文雄)

上記のような具合であった。
10月17日の別れ
漱石
見つつ行け旅に病むとも秋の不二
子規
行く我にとどまる汝に秋二つ

*明治という時代は改めて時間が濃密で、奇跡的な時代だったと思い知った次第。






コメント

このブログの人気の投稿

ゼロ句会10月及び兜太ナイト2 報告者 後藤 章

青年部勉強会「兜太ナイト」開かれる

第2回俳句賞「25」に行ってきた