青年部勉強会「兜太ナイト」開かれる
20180721
青年部の勉強会が、協会図書室で開かれた。題して『兜太ナイト』講師は海程同人田中亜美さん。司会は青年部長の神野紗希さん。スタッフの黒岩君も大活躍。
当日は青年部のゼロ句会(50歳以下対象句会)が午後一時から行われ、その後に勉強会が行われた。参加者は当然句会メンバーも多数移行して、新たな参加者も加わり賑やかに行われた。
まず、開催の趣旨を青年部ブログからコピー
http://gendaihaikukyokai-seinenbu.blogspot.com
最初に講師の田中亜美さんが『俳壇』2018年6月号に纏めた年譜に沿って、処女句集『少年』出版に至るまでの兜太の生涯を概説、それに対して神野部長が質問をしてゆく形であった。途中からは出席者の活発な質問も受け付けて、活気ある討議となった。
田中さんは従来の年譜に加えて、兜太の人との関わりに重点を置いた書き方をなされていて、興味深い年譜となった。
田中氏の発言で筆者が勉強になった点
*1兜太が二歳から四歳まで父の居る上海で育ったということ。兜太の父は医者で当時東亜同文書院の校医をしていた。
*2兜太と同じ1919年生まれの俳人:安東次男、石原八束、佐藤鬼房、沢木欣一、鈴木六林男、原子公平、森澄雄。一つ下に飯田龍太、伊丹三樹彦、三橋敏雄がいること。
*3兜太の親友と言われる出沢珊太郎の数奇な人脈。特に実業家星一、星新一との関係など。
*4兜太が戦前に二編の小説を書いていたこと。『狸の応召」S15年、「おだいさん」S18年
筆者がここで注目して発言もしたのが、二歳から二年間上海で育ったことと、兜太の韻律の関係についてであった。
この異郷での幼児期間は母語の習得に影響があると、言語学者の田中克彦は『ことばと国家』に次のように書いている。
同様に中村草田男は中国アモイに生れて三歳までいた。母は外交官の妻として外出勝ちで乳母による授乳であったようである。
筆者の発言の趣旨は、兜太も草田男も定型をはみ出す韻律を持っていたことと、この外国で幼少期を迎えたことに関係があるのではないかという点にある。つまり多くの日本人が母語としている日本語の韻律だけが両者の言語を規定しているのではなく、その韻律をはみ出しても気にしない素地が、この中国経験で培われたのではないか?ということである。耳に入ってくる中国語の韻律が影響を与えたのではないかという見方であった。
次に筆者が思ったのは、出席者の多くが20代から40代の方々であって、彼らが兜太の処女句集の名前が『少年』であることに違和感を抱いている点であった。昭和30年、兜太36歳の時に出版されているが、オジサンが『少年』なんてよくも恥ずかしげもなくつけたものだという指摘があった。これにはだいたいの人が笑って同意したように見えた。筆者は一度もそのような疑問を抱いたことがなかったので少しショックだった。
参加者の橋本直氏が、句集『少年』に〈少年〉の使われた句は5句(実際は6句)あるが、その内容と句集名の関係の考察が必要ではないかと発言した。
そこで書き出してみた6句。
少年の放心葱畑に陽が赤い 東京時代S15~18
犬は海を少年はマンゴーの海を見る トラック島S19~21
罌粟よりあらわ少年を死に強いた時期 飯盛山) 竹沢村にてS24~25
少年一人秋浜に空気銃打込む (尼崎にて) 神戸時代S29~30
塀わたる少年朝眼に旅はじまる 神戸時代S29~30
滑り台に少年現われ塔と並ぶ 神戸時代S29~30
この六句の内容から見て、やはりこの〈少年〉は純粋な少年であると改めてわかる。漢文における〈少年学成り難し〉の少年ではない。そうすると兜太が36歳の時に処女句集に『少年』と名付けた心理はもっと探られてもいいかもしれない。橋本氏の指摘は重要だと思う。
筆者は会ではこう発言した。
「私は現在66歳だが、この句集が昭和30年に出されたことを、この時代をもっと考えなければいけない。昭和27年に日本が独立して、当時日本人は新しい国を作るということで若々しく運動を広げていた。労働運動である。その熱気の中でこの句集は編まれたことを考慮してもいいのではないか」「そんなに恥ずかしい気持ちは兜太にも無かったのではないか?」
いわゆる社会性俳句の時代でもある。兜太の句がそれを示している。
夜の果汁喉で吸う日本列島若し S29年(昭和俳句作品年表より)
筆者が3歳のころのことであるから、知っているわけではないが、そのような時代の父や教師を身近にしていた。だからあの時代の雰囲気は今の人よりもわかるつもりでの発言だった。しかし、上記6句を改めて読み直してみたとき、兜太の心の中にはもっもっと純粋なものへの希求があったのかもしれないと思い始めた。この辺は、田中亜美さんに研究課題としてもらえるだろう。
この研究会は面白いテーマで年に数回開かれている。協会員以外の若手も自由に参加してかなり賑やかに行われている。会場の関係もあるが、青年部ブログで開催案内は見ることが出来るので一度覗いて見ていただきたい。
青年部の勉強会が、協会図書室で開かれた。題して『兜太ナイト』講師は海程同人田中亜美さん。司会は青年部長の神野紗希さん。スタッフの黒岩君も大活躍。
当日は青年部のゼロ句会(50歳以下対象句会)が午後一時から行われ、その後に勉強会が行われた。参加者は当然句会メンバーも多数移行して、新たな参加者も加わり賑やかに行われた。
まず、開催の趣旨を青年部ブログからコピー
http://gendaihaikukyokai-seinenbu.blogspot.com
第155回勉強会「兜太ナイト」ご案内
金子兜太逝去から4ヶ月が経とうとしている。
俳句の世界において、兜太の存在があまりにも大きい存在だったことは明らかだが、現代の私たちにとって、兜太を読むことはどのような意味を持つのか。
青年部は、まず兜太の来し方を振り返ることから始めたい。
俳句の世界において、兜太の存在があまりにも大きい存在だったことは明らかだが、現代の私たちにとって、兜太を読むことはどのような意味を持つのか。
青年部は、まず兜太の来し方を振り返ることから始めたい。
田中亜美さん(左)と神野紗希部長(右)
最初に講師の田中亜美さんが『俳壇』2018年6月号に纏めた年譜に沿って、処女句集『少年』出版に至るまでの兜太の生涯を概説、それに対して神野部長が質問をしてゆく形であった。途中からは出席者の活発な質問も受け付けて、活気ある討議となった。
田中さんは従来の年譜に加えて、兜太の人との関わりに重点を置いた書き方をなされていて、興味深い年譜となった。
田中氏の発言で筆者が勉強になった点
*1兜太が二歳から四歳まで父の居る上海で育ったということ。兜太の父は医者で当時東亜同文書院の校医をしていた。
*2兜太と同じ1919年生まれの俳人:安東次男、石原八束、佐藤鬼房、沢木欣一、鈴木六林男、原子公平、森澄雄。一つ下に飯田龍太、伊丹三樹彦、三橋敏雄がいること。
*3兜太の親友と言われる出沢珊太郎の数奇な人脈。特に実業家星一、星新一との関係など。
*4兜太が戦前に二編の小説を書いていたこと。『狸の応召」S15年、「おだいさん」S18年
筆者がここで注目して発言もしたのが、二歳から二年間上海で育ったことと、兜太の韻律の関係についてであった。
この異郷での幼児期間は母語の習得に影響があると、言語学者の田中克彦は『ことばと国家』に次のように書いている。
<人間は生まれるとすぐに、からだとことばとのこの二つの座標軸のなかに位置
づけられていて、その外に出ることはない。言いかえれば「我々は親から受けた
肉体を通じて自然とつながり、母のことばによって社会とつながる」(アイヒラ
ー)のである。~中略~子供はふつう、まず母親(ときには代りの乳母)の乳で
育てられる。そのとき、乳房からの授乳が無言で行われることは決してない。乳
を吸わせる母親と乳を吸う子供とのあいだはには、同時にことばを話しかける母
親と聞く子供の関係が必ずあった。こどもが全身の力をつくして乳を吸いとると
同時に、かならず耳にし全身にしみとおるものは、またこの母のことばであっ
た。>
同様に中村草田男は中国アモイに生れて三歳までいた。母は外交官の妻として外出勝ちで乳母による授乳であったようである。
筆者の発言の趣旨は、兜太も草田男も定型をはみ出す韻律を持っていたことと、この外国で幼少期を迎えたことに関係があるのではないかという点にある。つまり多くの日本人が母語としている日本語の韻律だけが両者の言語を規定しているのではなく、その韻律をはみ出しても気にしない素地が、この中国経験で培われたのではないか?ということである。耳に入ってくる中国語の韻律が影響を与えたのではないかという見方であった。
次に筆者が思ったのは、出席者の多くが20代から40代の方々であって、彼らが兜太の処女句集の名前が『少年』であることに違和感を抱いている点であった。昭和30年、兜太36歳の時に出版されているが、オジサンが『少年』なんてよくも恥ずかしげもなくつけたものだという指摘があった。これにはだいたいの人が笑って同意したように見えた。筆者は一度もそのような疑問を抱いたことがなかったので少しショックだった。
参加者の橋本直氏が、句集『少年』に〈少年〉の使われた句は5句(実際は6句)あるが、その内容と句集名の関係の考察が必要ではないかと発言した。
そこで書き出してみた6句。
少年の放心葱畑に陽が赤い 東京時代S15~18
犬は海を少年はマンゴーの海を見る トラック島S19~21
罌粟よりあらわ少年を死に強いた時期 飯盛山) 竹沢村にてS24~25
少年一人秋浜に空気銃打込む (尼崎にて) 神戸時代S29~30
塀わたる少年朝眼に旅はじまる 神戸時代S29~30
滑り台に少年現われ塔と並ぶ 神戸時代S29~30
この六句の内容から見て、やはりこの〈少年〉は純粋な少年であると改めてわかる。漢文における〈少年学成り難し〉の少年ではない。そうすると兜太が36歳の時に処女句集に『少年』と名付けた心理はもっと探られてもいいかもしれない。橋本氏の指摘は重要だと思う。
筆者は会ではこう発言した。
「私は現在66歳だが、この句集が昭和30年に出されたことを、この時代をもっと考えなければいけない。昭和27年に日本が独立して、当時日本人は新しい国を作るということで若々しく運動を広げていた。労働運動である。その熱気の中でこの句集は編まれたことを考慮してもいいのではないか」「そんなに恥ずかしい気持ちは兜太にも無かったのではないか?」
いわゆる社会性俳句の時代でもある。兜太の句がそれを示している。
夜の果汁喉で吸う日本列島若し S29年(昭和俳句作品年表より)
筆者が3歳のころのことであるから、知っているわけではないが、そのような時代の父や教師を身近にしていた。だからあの時代の雰囲気は今の人よりもわかるつもりでの発言だった。しかし、上記6句を改めて読み直してみたとき、兜太の心の中にはもっもっと純粋なものへの希求があったのかもしれないと思い始めた。この辺は、田中亜美さんに研究課題としてもらえるだろう。
この研究会は面白いテーマで年に数回開かれている。協会員以外の若手も自由に参加してかなり賑やかに行われている。会場の関係もあるが、青年部ブログで開催案内は見ることが出来るので一度覗いて見ていただきたい。
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