第三回協会記者会見開催 8月7日 by章

第三回目の協会記者会見が開催された。
今回の目玉は受賞者インタビューであった。出席者は現代俳句協会賞、兜太現代俳句新人賞、同評論賞の受賞者の方々である。下記の人々である。

現代俳句協会賞    佐怒賀正美 永瀬十悟 (6月決定)
現代俳句評論賞    武良竜彦  (7月決定)
兜太現代俳句新人賞  佐孝石画  (7月決定)

左から佐孝石画氏、佐怒賀正美氏、永瀬十悟氏、武良竜彦氏
出席マスコミ各社
左から俳句アルファ、俳壇、俳句界、角川、俳句四季

協会側からは対馬副会長、佐怒賀広報部長、網野顕彰部長、事業企画部長が出席
 評論賞受賞者武良氏、熱く石牟礼文学について語った。
評論賞の受賞作は石牟礼道子の俳句作品について考察したものだ。表題は
「桜(しゃくら)の花の美(いつく)しさようなあ-石牟礼道子俳句が問いかけるもの」

武良氏は興味深いことをインタビューで明かされた。この作品は前年に山本健吉評論賞に応募したものであった。その時50枚が規定枚数だった。残念ながら石牟礼道子の評伝ではないかとの評言もあって受賞にはならなかった。そこで今回の協会評論賞応募を考えたが規定枚数は30枚、とても石牟礼文学を書ききれないと諦めかけたが、高野氏の奨めもあって、彼女の俳句に絞って論をまとめれば可能ではないかと思い直し、応募したとのことであった。
 筆者は顕彰部長のお許しを得て受賞作を読んでみた。全容は『現代俳句10月号』に掲載されるであろうが、ぜひお読みいただきたいと思う。水俣病の世界との格闘から生まれた石牟礼文学の異形の一端を、この評論を通じて感じ取ることができるであろう。
 穏やかに始まった記者会見が進んだところで、武良氏は一段と声のトーンを挙げて「石牟礼道子の作品が未だに文学として扱われていないことに愕然とした。彼女の文学はガルシア・マルケスの世界にも匹敵するものである。」と語った。
 武良氏は石牟礼の俳句は新しい句の可能性を示しているのではないかともいった。そのことを彼はこの評論で書いたわけだが、正直、ここまで来た現代俳句の表現に新しい方法論があるとは思えない私にとって、氏の論は序論でしかないとの印象を得た(実際武良氏も記者会見の中でそのような発言もなされた)。つまり、石牟礼文学全体の構造、その「自己表出」欲の在処、方法論にはよく目の行き届いたものであって、その影響下に俳句があるというところまではよくわかる論であった。だが今欲しいのは具体論なのだと思うのだ。やはりこの論も精神論ではないのかとどこかで思っている自分がいることは隠せない。
 だが会見後、数度読み返してみると、武良氏が渡辺京二の次の言葉を引いて、俳句の可能性に筆を進めたところは氏の思いの肝であり、かなり具体的な踏み込みであったことが分かった。
「人びとはなぜ(石牟礼作品が)きわめて幻想的であることに気づかぬのであろう。このような美しさは、けっして現実そのものの美しさではなく、現実から拒まれた人間が必然的に幻想せざるをえぬ美しさにほかならない」
 この渡辺の言葉に続いて武良氏は「石牟礼俳句はそのような地点から発想されている。」と書いている。この視点から見れば、東日本大震災時に集められた俳句とその作句姿勢に武良氏が違和感を抱かざるを得なかった心情もよく分かった。このことは大事なことである。大事な批評である。
 「チッソは私だ」「チッソを許す」という言葉がどれだけ重い背景を背負ったうえで出た言葉か『苦界浄土』は書いているが、いま「東電は私だ」「東電を許す」と果たしていえるか?という問いである。
 「悶え神」「のさり」という言葉の意味するものが石牟礼文学の背骨だが、ここに果たして私は立つ勇気があるだろうか。その覚悟があれば本論は俳人自らがそれぞれ書かねばならないことなのかもしれない。祈るべき天とおもえど天の病む  道子

  この意味で今回の評論賞は意義深い作品を選んだといえよう。
(昨年この作品が出されていたならば筆者の阿部完市論は一蹴されたことだろう。嗚呼人生は運である。)


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