昭和俳句史年表(戦後編を読む)3

雁なくや夜ごとつめたき膝がしら 桂信子(31歳)1914年生まれ

 女性の昭和21年はどのようなもだったのか。桂信子はこの時点で寡婦である。1939年に結婚して41年に夫は病死した。戦災を大手前高校の近くの大阪市船越町で受け、焼け出されて、彼女の『句文集』によれば、モンペ一枚で豆ばかりほおばって母を入れ女3人で暮らしていた。大阪の空襲は昭和20年3月12日から断続的に8月14日まで続いた。
その後北河内に仮寓した。その借りた家が結構大きく、門までは距離があったので次の句ができた。
 閂を掛けて見返る虫の闇
 この句と同時に先に挙げた句ができたのである。


 この年の彼女の行動として特異なのは、山口誓子が同年に出した『激浪」という句集を書き写してまでも傾倒研究したことだ。伊丹三樹彦が古本屋を営んでいたので彼から借りて書き写したという。物資不足や世情混乱の時代にこのひたむきさがあったことは驚くべきことである。誓子の句集出版も驚くべきことだが、この時期に自らの芸術追及のために尊い時間を費やしたということが信じられない。多くの人が衣食住に翻弄されてた時期にである。しかしこのことは事実なのである。
 唯一、戦後生まれの筆者として理解できるかもしれない点は、決して人間というものは、四六時中生きることばかりのために、時間を費やせない動物なのだということだ。戦後間もないというだけで判断を押し付けてはならないのだ。多様な戦後があったことを知らなければならないのだ。豊かな精神生活を求める時間がそれぞれに僅かでもあれば、何か生み出す人々もいたのである。信子にとっていや俳人にとって、俳句は集中してしまえば時間は短くても何らかの作品を生むことができる詩形だったことは幸いだった。
 人から借りた家に仮寓して、一人かこつ夫の居ない寂しさは、昭和21年であるだけに切々と読者に迫る。生きて行くこと自体が不安定なのだから、ましてやという思いである。戦争未亡人はあまた居た、彼女らの気持ちを俳句によって後代に美しく残しえたのは信子しかいなかった。それが貴重である。宇多喜代子はある座談会で、戦中に現在のように女性俳人が多くいたなら、きっともっと銃後の世界が深く描かれていたことだろうと、のべた。まさにこの視点で、桂信子の句は輝いているのだ。この句は第二句集『女身』(昭和30年)に納められている。生涯を気高く生きた信子が、こと俳句においては自らの肉体に執着して官能的な句を多くなしたのは実に興味深いことだ。この点については他の素晴らしい論考に任せたいが、女性が常に肉体の存在を踏まえて思考するものであり、それが実にしぶとさをはっきする。それに対して男は頭で考えてばかりいるので空虚で折れやすい。戦争指導者の高級軍人は自殺か、巧みな自己弁護で戦争責任を逃れ、のうのうと生き残った。彼らには脳があっても肉体が無いのである。だから割腹自殺やピストル自殺ができる。これは養老孟司の卓見である。簡単に言えば痛みより思想が勝るのである。ISで自爆テロの多くは男であるところを見れば、このことは洋の東西を問わないようだ。

何がここにこの孤児を置く秋の風 加藤楸邨 41歳(1905年生まれ)

 そこで楸邨である。楸邨はこの時すでに草田男から戦前の態度について批判(『俳句研究』昭和21年」7月8月号)されていたのである。戦争中、楸邨の俳誌「寒雷」は俳誌の合併をくぐりぬけ、紙の配給もあって発刊ができた。それは秋山(邦男)牧車という陸軍情報参謀などが同人にいたからだと言われている。草田男はその癒着の態度を責めていたのだ。一方、草田男は同じ人間探求派と言われていたが、その作品の傾向から、当時俳壇に力を持っていた小野蕪子ににらまれて謝りに生かされた屈辱があった。そして「ホトトギス」同人を辞退し検挙を免れたのだ。昭和17年ごろのことである。
 草田男の批判に対して翌年の1月号2月号の『現代俳句』紙上で楸邨は反論した。論旨は批判は甘んじて受ける、俺の今後の生き方を見てくれというものであった。今、私は単に一返答を以て直にすべてが終るとは絶対に考へない。私は何年或は終生にわたる自分の生涯を以て実証する外ないところに立つてゐる>具体的に引用すれば次の部分が草田男への直接的返事である。
<戦争で死んで行った人々に対してすまない気持ちがある。けれども私は権力に媚びたりそれを利用したりするような器用な人間ではない。「寒雷」にいる元の軍高官は「馬酔木」以来つきあいのある年長者や仲間で現在も親愛をもってつきあっている。ただ雑誌統合の際には「寒雷」が残ることを辞退するべきだったかもしれない。中国大陸への派遣については俳句の生きる道を見い出したいと思って引き受けたものであった戦後まもなく、あらゆる分野でこれに類した批判はあったのだろう。このような恨みや批判により傷つき、傷つかせたある世代がいたのだ。それは宿命の様なものだ。時代や性別によって、この戦争から受けた傷は様々な形をしていたのであ。以上を知ったうえでこの句を見てみると、この句はあえて言えば「楸邨、とぼけているのか!」とでも罵声を掛けたくなる句である。このように表現せざるを得ないところが人間探求派いや楸邨であるとするならば、私の感覚ではない。極端に簡略化して言えば、戦中に陸軍から便宜を受けて永らえていながら、戦後間もない時点で、孤児を生んだのは何者かなどと臆面もなく句に出来るメンタリティーがわからない。「何がここに」・・・分かり切った話だ。戦争に間違いないのだ、楸邨の眼前に孤児を置いたのは。それをこのようにしか楸邨は表現できないのだろうか。この疑問に楸邨の弟子であった今井聖が一つのヒントを与えてくれた。今井が「週刊俳句」(2010年・極私的「金子兜太」体験)の中にに書いたものである。                                                    <おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ  楸邨
のように先入観通り、実存的傾向の楸邨だったのだが、そのうち、僕にとっては極めて重大なことに気づいた。楸邨は結果的にどんな観念句になろうと、かならず現実の実体から得られる実感を入り口にしている。ものから自分の五感を通して受け取ったものを起点として観念にとぶという順序が徹底されているのである。>
今井が指摘する、楸邨が「自分の五感を通して受け取ったものを起点として観念にとぶという順序が徹底されている」とするならば、眼前の実際の孤児を見て、楸邨はこの孤児を生んだものの大きさに対峙していたことになる。そこに人間の薄汚さ、弱さ、自分の姿を見ていたとしても、楸邨はそれを観念に昇華させなければ句に出来なかったのである。この句の形は「俺の今後の生き方を見てくれ」とした草田男への反論の一つの具体的姿とみるべきなのだ。そのようにしか生きられなかったのである。誰がこの楸邨を責めることができるだろう。この人間性に憧れ、集った俳人は多かった。それは言わずともわかるこの時代に生きた人々がそれぞれに持つ弱さがあったからに違いない。

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