協会講師陣 各地で講演第二弾

第43回 現代俳句講座  開催される
 日 時 : 2019年6月30日  13:30から16:40 
 会 場 : ゆいの森あらかわ「ゆいの森ホール」
 講 演 : 中村会長と対馬副会長

「ゆいの森あらかわ」は荒川区の新設図書館で、当協会は所収していた約1万冊を寄贈して、「俳句のまち・あらかわ」の俳書充実に貢献させて頂いた。それは「現代俳句センター」として当館三階にコーナーが設けられている。エレベーターを上っていくと目の前に現れます。






十三時半会場を待ちきれず100名を超す聴衆が集まりました。 
会場は一階の立派な階段ホールです。

当日はケーブルテレビの取材もありました。

 演者の対馬康子副会長と中村和弘会長

一番バッターは対馬康子氏
演題は「中島斌雄の世界-新具象俳句」

中島斌雄


麦の創刊号に書かれた宣言
(創刊号復刻版より)

対馬氏が好きだという斌雄の句の色紙
字も素敵だ

 井本農一と中島斌雄 珍しい写真だ 背景は象潟


 さあ、講演始まりました。
関心は「麦」の唱える「新具象俳句」とは何かということである。

筆者は対馬氏にこう質問した

「前衛俳句で歩を止めている現代の俳句の現状において、「新具象俳句」は手法として有効だと信じているのか?」・・・(結構大胆で嫌みな質問だったが、誰しも興味はあるだろう)

対馬氏は即刻「有効だし、そうあるべく日々努力している」と答えた

与えられたレジュメから見ると斌雄の唱えた「新具象俳句」次のごく要約できるだろうか。

「(俳句の)根本は作者の所思の表現にある。その表現は、つねに間接的な行き方をとる。景を書いて、情を叙するのである。まわり遠いのだが、直説法では生きえない。」
 
「間接的な表現―といっても、それは単なるあるがままの自然の模写ではないはずである。昔ながらの「客観写生」を超えたもの、そこに現代俳句の求める新しい具象の世界が存立するといえよう。」

「犬が無花果をたべた」という思考は自然の関係と現実の関係をのべているが、「無花果が犬を食べた」というと、もう自然の関係も現実の関係も破壊されて、とにかく新しい関係がのべられている。そしてそれはポエジイの思考である。」



「ピカソが行ったことばの中に『私の場合は一つの作品は破壊の合計である』と言っている。・・・もちろん破壊されたことだけでも一つの新しい関係を結ぶことになるが、それだけではすぐれたポエジイではないだろう。その新しい関係が、なにかしら永遠という神秘的な意識を象徴し、なにかしら哀愁を人間に感じさせなければ、それはすぐれたポエジイではないと思う」  (西脇順三郎「詩学」)
 
「破壊のあとに、新しい自然関係、魅力的な現実関係を組み立てなおさなければならない。古い自然関係を超越して、新しい自然関係を建立することが必要であろう。」

 
ビュッフェの道化師の絵や闘牛士の絵は、道化師や闘牛士を描いた具象の後ろに人間の悲しみや厳しさがみてとれる。俳句も具象と抽象をどう結合させるか、すなわち「新具象俳句」の道がある。


続いて登場は中村会長
演題は「加藤楸邨のヒューマニズム」

中村会長

たまたま当日会場に来られた人が持参した楸邨の句集『野哭』を手に
なぜ、今、楸邨のヒューマニズムなのか、そして『野哭』なのかと話し始めた。





 「現代社会の雰囲気が非常に不気味な方向に向かっている」と中村会長は認識していると述べ、そんな時代だからこそ、加藤楸邨に於けるヒューマニズムの問題は再度振り返らなければならないのであると言われた。それには第七句集の『野哭』を読み直すことが大事だと思いいたったという。
 『野哭』は昭和20年五月から昭和22年までの句を集めた句集である。
副題に「この書を今は亡き友に捧げる」とある。このことはこの句集の性格を実によく表している。

 野哭という文字は杜甫の下記の詩から取られている。中村氏は何度か練習したらしく、朗々と読み上げた。

   閣夜    杜甫

歳暮陰陽短景をうなが
天涯の霜雪(かん)(しょう)()

五更の鼓角声悲壮に

三峡の星河影動揺す

野哭千家戦伐を聞き
夷歌(いか)幾処か(ぎょ)(しょう)より起こる
臥龍躍馬(つい)に黄土
人事音書(いんしょ)(そぞろ)に寂寥

この詩は杜甫が科挙の試験に落ちて、官途を閉ざされ揚子江に面した家(閣夜)で世を悲嘆した詩であるらしい。野哭とは墓の前で大声で泣く声である。戦争で亡くなったものを思って泣く声である。

中村氏は、ここに楸邨は自身の運命との繋がりを感じたのであろうという。

渡された資料の年譜から拾えば


明治四五年(大正元年 一九一二年)七歳
東京国分寺小学校に入学するも父の転任にて御殿場小学校に転校。
度重なる転校は人間形成に影響していると思われる】

 大正七年(一九一八年) 十三歳
原ノ町小学校卒業、一ノ関中学校に入学。
石川啄木に心酔。柔道・剣道・相撲に熱中。
父母に従って教会に通い受洗

大正十四年(一九二五年)二十歳
二月七日父逝去。母、弟、二人の妹を連れて上京。東京で職を得られず水戸で代用教員となる。内村鑑三に傾倒


昭和十一年(一九三六年)三十一歳
二・二六事件起る。教え子が渦中にいることを知り衝撃を受ける

 昭和十五年(一九四〇年)三十五歳
新興俳句運動弾圧はじまる。俳誌「寒雷」を創刊主宰。草田男を訪問し中島斌雄を知る。

昭和十九年(一九四四年)三十九歳
改造社および大本営報道部嘱託として、土屋文明、石川信雄と北支、蒙古、中支、満州をまわり、十月に帰国。

*中村氏はこの旅行は、弟子たちが官憲の手から守るために中国へ逃がしたのではないかとも思えるといった。楸邨はここで、当時のゴビ砂漠まで足を延ばしているのだが時代状況を考えれば自殺行為にも似た行動であったろう(by章)。

昭和二十年(一九四五年)四十歳
深夜空襲に遭い荏原区の住居全焼、図書原稿全て焼失。

昭和二十一年(一九四六年)四十一歳
中村草田男の「芸と文学―加藤楸邨氏への手紙」(俳句研究七、八月号)などで戦争協力者として非難される。

この年譜の中から様々なことが考えられるが、少なく『野哭』と句集を名付けた思いはわかる。(by章)


『野哭』の中から中村氏が引き出した句を下記に示す。楸邨の「ヒューマニズム」をそれぞれが読み取ってみてはいかがだろうか。

「野 哭」
      この書を今は亡き友に献げる
火の中に死なざりしかば野分満つ
    流離抄  自 昭和二十(一九四五) 年五月
         至 昭和二十一(一九四六)年七月

明け易き欅にしるす生死かな
わが家なき露の大地ぞよこたはる
飢せまる日もかぎりなき帰燕かな
螢草見て立ちにけり戦了る
破蓮や釣れてたのしき顔ならず
冬雁やいまだかへらぬ人の上
花八つ手悪夢覚めたる目鼻かな
つゆじもの烏がありく流離かな
凩やかぎりしられぬ星の数
飴なめて流離悴むこともなし
木枯の底に仰ぐや狼座
   義弟帰る
草蓬あまりにかろく骨置かる
蝌蚪の群焦土に子等を置きにけり
野蒜つむ擬宝珠つむただ生きむため
労働歌鉄扉おもたくおろされぬ
焼土も蟻穴を出て走るなり
鼠等も餓ゑてしたしき春の闇
燕の子仰いで子等に痩せられぬ
一椀の藜の粥にかへりきぬ
青葉木菟霧ふらぬ木はなかりけり
荒梅雨の吹きしぶきをり塩つくり
梅雨の月明日食ふ米を問ひてねむる
買出しや梅雨満月に顔をあげ
蚋の陣くぐり買ひえし藷二升
甘藍の一片をさへあますなし
空梅雨の赤不二に米来ぬ日かな
豆噛んで焦土の石にかこまれぬ
闇市や梅雨夕焼に貫かれ
紫陽花の蔭に目があり見ればなし
蜘蛛夜々に肥えゆき月にまたがりぬ
粥腹に梅雨入りの朝日浴びにけり
汗の目のくぼみて子等も飢ゑんとす
寝つつ飲む乳にむせをり梅雨の月
蟬鳴ける貨車やそのまま動き出す

  <北海紀行・昭和二十一年八月北海道に渡り、阿寒に登り稚内に至る>
蜩や水底に畦澄むが見ゆ
おのれ吐く雲と灼けをり駒ケ嶽
蟬とんで火山灰地の灼けたる石
迎へ火の幹を染むるや海霧の中
海霧ふかく焚く火のいろの海に映ゆ
奥蝦夷の海霧の港の蜻蛉つり
たわたわと乳房揺るるや昆布干し
闇師等が欺しあひをり夕焼けつつ
額にさす宗谷の月にめざめけり
秋燕やサガレンへ立つ船もなし
翅ふるや霧笛のひまのきりぎりす
奥蝦夷の月の時計を巻きをはる
唐黍の爆ぜたる音にかへりけり

   野哭抄 昭和二十一年~昭和二十二年
大露の雲や燕の生きて見つ
何がここにこの孤児を置く秋の風
 兜太トラック島に健在の報あり
はるかより朝蜩や何につづく
飢さむく目に漆黒の煙たつ
火の中に死なざりしかば野分満つ
死ねば野分生きてゐしかば争へり
鵙の天きりきり青しよるべなし
疲れ濃し畳の下を野分ゆく
大鷲の爪あげて貌かきむしる
冬の月焦土に街の名がのこり
米負ひて知世子ならずや冬の雁
極月の人を見てをり寒鴉
闇売のこゑのやさしや雪卍
わがための一日だになし寒雀
凩や焦土の金庫吹き鳴らす
焦土より寒水はしり出づるかな
凩や焼けのこりしは墓の石
冬鷗生に家なし死に墓なし
暗し暗し目が冬桃にたどりつく
雪の上に鯨を売りて生きのこる
死にたしと言ひたりし手が葱刻む
冬の雁焼土ばかり起伏せり
死や霜の六尺の土あれば足る
鉄のごとき顎の傷痕マスクはづす
靴買へば米買ひかねつ梅雨の雲
浮浪児がねむりさめたる蛾のひかり
藷粥や父とよばれて飢ゑしめき

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