昭和俳句作品年表(戦後編)を読む 4

長らくブログ更新を怠ったことをお詫びします。ネタがないときの為に書き綴っている昭和俳句作品年表の句に対する考察を入れるのさえ怠ってました。これから頑張ります。今年は協会の様々な取り組みが開花するときです。ビビッドに伝えていきます。
失礼しました。加藤楸邨の句に関してはその3でアップ済みでした。2020年1月27日新しい記事を追加しました。

水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る 金子兜太 26歳(1919年生まれ)
 その一人が金子兜太である(加藤楸邨の回の最後の文章に続く)。
 ご多分に漏れず彼も、軍上層部の無策のため、米兵との肉弾戦はなく、戦略的に取り残された地(トラック島)で飢えと戦った人間である。大砲を外した日本の駆逐艦で終戦の翌年11月復員した。記録的には<11月5日から1946年2月6日までに、駆逐艦波風、初櫻、柿、響、楠、海防艦占守、奄美、宗谷およびアメリカ軍の戦車揚陸艦によりトラック島を出発、1945年11月10日から1946年2月13日の間に復員(海軍、24524名)を完結した。『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦<1>マリアナ玉砕まで』付表第6。>との記録があるが、金子の『わが戦後俳句史』には<昭和21(1946)年十一月、石鹸に詰め込まれた句稿といっしょに浦賀に上陸した・・・」とある。そこでDDTを吹きかけられたとも記述しているので、先の大場白水郎の句のところで述べた浦賀の検疫を、金子も受けていたのである。
 金子自身が、戦後の俳句、いや自身の俳句の原点だと言っている掲句だが、不思議なことに金子の『わが戦後俳句史』にはこの句に関する叙述が無い。2011年の朝日新聞のインタビューでは「時代の代表句」と自分でも言っていたが、出版された1985年当時はそのような感覚はなかったようである。その代わり次の句を上げている。加えて「現在までの自分の生き方は『船酔い』だったのだ」と金子らしい感性で戦争時代までの人生を表現している。

 北へ帰る船窓雲伏し雲行くなど 金子兜太


 金子は掲出2句を含めた3句を句集『少年』に帰国(三句)として納めた。彼は復員船の甲板上で「自分の基本的な生き方をどうするかを考えながら」雲を見ていたという。帰ったら楸邨の『寒雷』でまた俳句を始めることも決意していたと書いている。15か月の外地での捕虜生活はある程度食事も提供され、未来考える時間があったのであろう。その意味では国内で敗戦を迎えた人々の方が、今日食べることに神経をすり減らしていたというべきであろう。彼は浦賀から故郷の皆野に帰るまでの長い列車の旅の中で『マルクス・エンゲルス伝』を読んだというから、意思的に戦後を生き抜いてゆく気概を持っていたようである。その準備をする時間がかえって与えられていたのである。これは変な譬えだが、まるで戦地という竜宮城から戻ってきた浦島太郎のようにも見える。このような戦後もあったのだ。


何がここにこの孤児を置く秋の風 加藤楸邨 41歳(1905年生まれ)


 そこで楸邨である。楸邨はこの時すでに草田男から戦前の態度について批判(『俳句研究』昭和21年」7月8月号)されていたのである。戦争中、楸邨の俳誌「寒雷」は俳誌の合併をくぐりぬけ、紙の配給もあって発刊ができた。それは秋山(邦男)牧車という陸軍情報参謀などが同人にいたからだと言われている。草田男はその癒着の態度を責めていたのだ。一方、草田男は同じ人間探求派と言われていたが、その作品の傾向から、当時俳壇に力を持っていた小野蕪子ににらまれて謝りに生かされた屈辱があった。そして「ホトトギス」同人を辞退し検挙を免れたのだ。昭和17年ごろのことである。
 草田男の批判に対して翌年の1月号2月号の『現代俳句』紙上で楸邨は反論した。論旨は批判は甘んじて受ける、俺の今後の生き方を見てくれというものであった。
今、私は単に一返答を以て直にすべてが終るとは絶対に考へない。私は何年或は終生にわたる自分の生涯を以て実証する外ないところに立つてゐる>
具体的に引用すれば次の部分が草田男への直接的返事である。
<戦争で死んで行った人々に対してすまない気持ちがある。けれども私は権力に媚びたりそれを利用したりするような器用な人間ではない。「寒雷」にいる元の軍高官は「馬酔木」以来つきあいのある年長者や仲間で現在も親愛をもってつきあっている。ただ雑誌統合の際には「寒雷」が残ることを辞退するべきだったかもしれない。中国大陸への派遣については俳句の生きる道を見い出したいと思って引き受けたものであった>             戦後まもなく、あらゆる分野でこれに類した批判はあったのだろう。このような恨みや批判により傷つき、傷つかせたある世代がいたのだ。それは宿命の様なものだ。時代や性別によって、この戦争から受けた傷は様々な形をしていたのである。             以上を知ったうえでこの句を見てみると、この句はあえて言えば「楸邨、とぼけているのか!」とでも罵声を掛けたくなる句である。このように表現せざるを得ないところが人間探求派いや楸邨であるとするならば、私の感覚ではない。極端に簡略化して言えば、戦中に陸軍から便宜を受けて永らえていながら、戦後間もない時点で、孤児を生んだのは何者かなどと臆面もなく句に出来るメンタリティーがわからない。「何がここに」・・・分かり切った話だ。戦争に間違いないのだ、楸邨の眼前に孤児を置いたのは。それをこのようにしか楸邨は表現できないのだろうか。この疑問に楸邨の弟子であった今井聖が一つのヒントを与えてくれた。今井が「週刊俳句」(2010年・極私的「金子兜太」体験)の中にに書いたものである。                                                                               <おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ  楸邨
のように先入観通り、実存的傾向の楸邨だったのだが、そのうち、僕にとっては極めて重大なことに気づいた。楸邨は結果的にどんな観念句になろうと、かならず現実の実体から得られる実感を入り口にしている。ものから自分の五感を通して受け取ったものを起点として観念にとぶという順序が徹底されているのである。>
今井が指摘する、楸邨が「自分の五感を通して受け取ったものを起点として観念にとぶという順序が徹底されている」とするならば、眼前の実際の孤児を見て、楸邨はこの孤児を生んだものの大きさに対峙していたことになる。そこに人間の薄汚さ、弱さ、自分の姿を見ていたとしても、楸邨はそれを観念に昇華させなければ句に出来なかったのである。この句の形は「俺の今後の生き方を見てくれ」とした草田男への反論の一つの具体的姿とみるべきなのだ。そのようにしか生きられなかったのである。誰がこの楸邨を責めることができるだろう。この人間性に憧れ、集った俳人は多かった。それは言わずともわかるこの時代に生きた人々がそれぞれに持つ弱さがあったからに違いない。

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