昭和俳句作品年表を読む その7


俗吏とし老いメーデイの列にあり     岸 風三楼 35歳(1910年生まれ)


 岸は大阪逓信省に勤めたので「俗吏」と自らのことを言った。ホトトギスを経て富安風生に師事して結社「若葉」運営に尽力した。一時(昭和10年)「京大俳句」に参加していたことから昭和15年に家宅捜査され、逮捕の危機があったが逓信省高級官吏の風生に救われたという事情がある。昭和19年に「若葉」の編集長に就任しているので国内で敗戦を迎えた。前に述べた安住敦は岸と逓信省という職場が同じであった時期があった。昭和18年頃、「旗艦」に参加していた安住敦は官憲の眼を逃れなければならない事情下で、岸を通して「若葉」に投句していた時期があった。ある年齢の国家公務員で国内にいた俳人の敗戦時期はこのようにどこか似ている。正直に言えば少し余裕のある位置にいたと言ってもいいだろう。戦争のことだけでなく俳句のことを、結社のことをいささか考えることができたのである。だが敗戦を機に事情は一変した。官吏と言えども食糧危機は平等であった。メーデーは昭和21年5月1日に第17回として復活した。折からの食糧不足で、皇居前に約100万人集めて「食料メーデー」と言われた。岸がどこでメ―デイの列にあったかわからないが大阪でもデモはあったのだろう。当時は35歳で「老い」と言い得たのだろうか。戦場にあっておかしくない年齢である。徴兵制では17歳か40歳(1943年以降は45歳まで)までが徴兵検査を受けて兵役を課されている。関西大学の渡辺勉教授の研究(「誰が兵士になったのか」社会学部紀要119号)によれば、太平洋戦争の時に700 万人以上もの人が兵士として戦地に行った。そのうち戦死したのは 200 万人近くと言われている。終戦時の日本の人口は約7200万人で軍隊にいた人は 全人口の 18.6%で約1340万人。20 歳から 40 歳までの男子人口 に対する割合では 60.9% にも上ると言われている。 まあほとんどの男子が戦争に行って不思議ではない時代だった。これまで出てきた上村、安住、岸などはこの世代に入る。同じ渡辺の研究によればこの時代は兵隊にとられた方も生活が一挙に苦しくなったようである。

 1920年代後半の青年労働者の平均月額給料は平均50円(現在の約20万円)、ところが兵隊の給料は5円50銭で銃後の家庭には9円(現在の約3.6万円)しか支給されなかったという。軍隊では衣食住が支給だから食うには困らなかっただろうが、家庭は一気に貧乏生活であったろう。戦地も厳しいことは間違いないが、銃後の生活も厳しかった視点は忘れてはいけない。


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