昭和俳句作品年表を読む その8
詩の如くちらりと人の炉辺に泣く 京極 杞陽(38歳 1908年生まれ)
杞陽は豊岡京極氏の当主で華族だった。44年に応召して平壌へ。敗戦後は兵庫の先祖の土地亀岡に住んで、俳誌「木兎」を昭和21年に出した。戦前よりホトトギスで活躍した。杞陽は関東大震災で姉以外の身内を失っている。1958年になってようやくその悲しみを淡々と表現しえている。<わが知れる阿鼻叫喚や震災忌>この人の句のどこかニヒルなところはここから来るのかもしれない。改めて俳句とは不思議な詩だと思う。ホトトギス上では華族様の句も同じ平面で扱われている。身分など超越していることが構造的にも句会というシステムが保証している。だからこそ杞陽は居心地がよかったのではなかろうか。
この句は親交のあった俳人の森田愛子がモデルと言われている。結核で鎌倉の七里ガ浜の療養所にしばらくいたが、三国に帰った。18年には虚子を迎えてく会が開かれ有名な虹の句が作られた。愛子は昭和22年4月1日つまりこの句の翌年に29歳で亡くなっているが、21年六月に小諸の虚子を訪ねている(web週刊長野記事)。伊藤柏翠と母田中よしと一緒だった。この時杞陽もいたのであろうか、杞陽はよく虚子を訪ねていたから可能性がある。しかしこの句の季語は「炉辺」で冬の句である。であるとすればこの句は虚子が昭和20年10月14日に愛子を見舞い、その足で豊岡の杞陽を訪ねている。この句は虚子から愛子の様子を聞いた杞陽が想像で作った句ではなかろうかと推察する。
しかしながら、伊藤柏翠と愛子、虚子のこの時期の関係は誠に美しい。敗戦の前後の時期を純粋に思いあった関係が成り立っていたことが不思議だし、日本の文化のそこ深さではなかろうか。柏翠は昭和21年当時36歳、森田愛子29歳、虚子72歳。柏翠と愛子は1939年鎌倉の結核療養所で会い、1942年愛子を追って天涯孤独の柏翠は三国へ行き同居する。虚子は俳句の共通の師という立場である。
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