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昭和俳句作品年表を読む その12

  おそるべき君等の乳房夏来る  西東 三鬼   (46歳 1900年生まれ) 中年や遠くみのれる夜の桃     西東 三鬼 露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す  西東 三鬼 みな大き袋を負へり雁渡る     西東 三鬼 枯蓮のうごく時きてみなうごく   西東 三鬼 中年や独語おどろく冬の坂     西東 三鬼   三鬼は自らの著書『俳愚伝』の中で、終戦も近いある時、     中年や焚火育つる顔しかめ の句を得て次のように思ったと書いている。  「中年感情」を基盤としようと私はつぶやいていた。  新興俳句の弾圧、投獄を経て作品発表をしないでいた三鬼は、敗戦の予兆の中で、自らの俳句再出発の芽を育てていた。  敗戦を迎えた三鬼に対して、続々と発刊される俳誌から作品を求めてきた。  中年や遠くみのれる夜の桃     この句は戦後早々に創刊された「俳句人」に発表されたものである。この雑誌は新俳句人連盟という団体の機関紙であった。この団体について三鬼は思想的上部団体があるとして参加を見送っていたが、その背景には誓子を中心とした同人誌の創刊を企画していたからだと自らも書いている。この団体は新興俳句で弾圧された人々とプロレタリア俳句で弾圧された人々の連携を図って設立され、主に日本文學報国会俳句部会に参加した俳人のの戦争責任追及を行った。この会はやがて思想的上部構造の存在を忌避する人々が脱退して、現代俳句協会設立へ向かったのである。  大雑把に敗戦間もない時期の俳壇の動きを描いたが、驚くべきは表現意欲の旺盛さと同時に党派性の対立心情が早くも大きく動き出していたことである。このなかで三鬼は、誓子を中心とした同人誌を企画していたわけだが、その発端は昭和21年に奈良にいた橋本多佳子を平畑静塔と訪問し、誓子の『激浪』草稿を読んで決意したという「俳愚伝」の記述を信ずれば、そこには純粋に文学的発想があったことが見えて救いである。神田秀夫は「戦後解放されたときは、みな中年に達しており、人間形成の第一歩から出直す気力も意欲も、少なくとも青年の如くにはない。彼等の喫緊の課題は先づ、自己の俳句的完成、これあるのみだった。」(『俳愚伝』)と書いている。

昭和俳句作品年表を読む その11

  水無月や与助は居ぬか泥鰌売  幸田 露伴(79歳 1867年生まれ)   昭和21年に露伴は長野の疎開先から伊豆の伊東に移動し、次に千葉の市川に移っている。疎開前に住んでいた小石川の家には結局戻れなかった。戦中から体中を悪くして眼もほとんど見えなくなっていた。こんな状況下にもかかわらず『芭蕉七部集評釈』を完成させた。完成には土橋利彦という人が様々な手助けをしている。また幸田文、玉親子の献身的な世話があった。露伴は戦中に日本文学報国会の会長に推されたがが固辞した。昭和17年には文学者への戦争協力が呼びかけられたが断っている。開戦の際も「ああ若い者がな、若い者がな」といって戦争を憎んだという。  掲出の句はこのような事情を考えると、市川で詠まれたものであろう。その当時露伴の身の回りに与助といわれるような下男がいた様子は、幸田文の文章にも、評伝の類にも見当たらない。思うにこの句の感覚は落語の「化け物使い」に似ている。人使いの荒い元御家人の隠居と田舎出の働き者の下男とそして化け物たちとの遣り取りが面白い話だが、露伴はこの元御家人そっくりの暴君ぶりだったらしい。志ん生の十八番でもあったから露伴も知っていたに違いない。すくなからず露伴の語り口と落語のそれの似ていることを指摘する評論家がいる。  この句は恐らく想像の句である。江戸の世界に遊んでいるのである。床に臥せって目も見えず、耳も遠くなった昭和21年の露伴は江戸に遊んでいたのである。

昭和俳句作品年表を読む その10

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  あせるまじ冬木を切れば芯の紅 香西 照雄(29歳 1917年生まれ)     香西はラバウルの生き残りである。21年にお復員して高松で高校教師となり竹下しづの女の指導を受け、同年に草田男の「萬緑」創刊に参画している。ラバウル地区の復員は、1946年2月27日に 空母葛城 により開始。同年11月16日の便をもって終了(『戦史叢書 南東方面海軍作戦〈3〉ガ島撤収後』、512~515頁)ということで、香西もこの時期に復員したものと思われる。当時ラバウル地区には約10万人の陸海空の軍人がいた。一大基地なのだがアメリカ軍の飛び石作戦で攻撃を受けず玉砕は免れたが、食糧事情は最悪であった。その中を生き抜いてきて、俳句と出会った。東大を卒業した知識人がどのように敗戦を感じ取っていたのか、この句に現れているだろうか。それは「あせるまじ」の措辞が十分に表し得ている。冷静である、しかしそれだけではない。芯に赤いものがあるのである。まことに嫌味にならない冷静さで戦後に生きる意思が表されている。その後の草田男調の超詰め俳句には見られない清々しさがある。   復員船 空母葛城  飛行甲板の破孔は修理されなかった。 pic.twitter.com/83f8pPQxoi  より拝借
  メーデーの腕くめば雨にあたたかし    栗林一石路(52歳 1894年生まれ) 闘争本部からはつらつと夏の少女たち 栗林一石路 ながい戦争がすんだすだれをかけた   栗林一石路   栗林は昭和16年に治安維持法で検挙、二年間投獄されている。敗戦は長野県の蓼科で迎えている。ジャーナリストでもあり戦後すぐに「民報」という新聞を出す。昭和36年67歳で永眠している。掲句の三句の中では三番目の句に人間としての実感があふれている。その前の二つは栗林の構えとしての句である。これもまた信じたものであり一人の人間を支えた思想から来る句として認めなければならないが、どこかポスター的な偽の明るさがある。この後出てくる西東三鬼の乳房の句と比べてみるとその嘘っぽさが歴然としている。  おそるべき君等の乳房夏来る  西東 三鬼  闘争本部からはつらつと夏の少女たち 栗林一石路  嘘っぽいという感覚に対して反発される方もいるかもしれないが、でも栗林の三句目  ながい戦争がすんだすだれをかけた   栗林一石路 この句こそ俳句形式の真の生かされ方ではなかろうか。栗林にしても重々そのことは理解していただろう。栗林のあとに生きているものとして、時代の中に生きて俳句を詠むということを考えるときこれらの句は多くの示唆を与えてくれる。   昭和30年に<シャツ雑草にぶっかけておく>という句を残しているが、ここにきて思想と俳句という詩形が栗林の中で融合したのかもしれない。

昭和俳句作品年表を読む その9

  沖かけて波一つなき二日かな  久保田万太郎(57歳 1889年生まれ)   久保田万太郎をひとでなしといったのは、志摩芳次郎である。「俳句をダメにした俳人たち」で書いている。ようは芸術家、小説家であっても女房を自殺に追いやるやつは人間として認めないという強烈な批判である。しかし俳句はかなり読ませて名句が多い。鬼でなければ人の心はつかめないのだろうか。この句も亦、戦後半年もたたない人の心境だろうか。火宅の人の心境だろうか。それともすべて虚構の劇的なものとして客観的に自分を見て描いているのだろうか。下記の二句も含めて万太郎の句には死の気配というか、あちら側の世界の雰囲気が漂っている。美しいもの以外価値名無しと思い切れた人間のみがいたる境地かもしれない。そのような人間にとって戦争だって過ぎゆく物の一つでしかない。虚子がそうであったように。どちらも挨拶句が上手いのはこの辺に鍵があるのだろう。 短夜のあけゆく水の匂かな  久保田万太郎 ゆく年やむざと剥ぎたる烏賊の皮 久保田万太郎

昭和俳句作品年表を読む その8

  詩の如くちらりと人の炉辺に泣く 京極 杞陽(38歳 1908年生まれ)   杞陽は豊岡京極氏の当主で華族だった。44年に応召して平壌へ。敗戦後は兵庫の先祖の土地亀岡に住んで、俳誌「木兎」を昭和21年に出した。戦前よりホトトギスで活躍した。杞陽は関東大震災で姉以外の身内を失っている。1958年になってようやくその悲しみを淡々と表現しえている。< わが知れる阿鼻叫喚や震災忌> この人の句のどこかニヒルなところはここから来るのかもしれない。改めて俳句とは不思議な詩だと思う。ホトトギス上では華族様の句も同じ平面で扱われている。身分など超越していることが構造的にも句会というシステムが保証している。だからこそ杞陽は居心地がよかったのではなかろうか。  この句は親交のあった俳人の森田愛子がモデルと言われている。結核で鎌倉の七里ガ浜の療養所にしばらくいたが、三国に帰った。18年には虚子を迎えてく会が開かれ有名な虹の句が作られた。愛子は昭和22年4月1日つまりこの句の翌年に29歳で亡くなっているが、21年六月に小諸の虚子を訪ねている(web週刊長野記事)。伊藤柏翠と母田中よしと一緒だった。この時杞陽もいたのであろうか、杞陽はよく虚子を訪ねていたから可能性がある。しかしこの句の季語は「炉辺」で冬の句である。であるとすればこの句は虚子が昭和20年10月14日に愛子を見舞い、その足で豊岡の杞陽を訪ねている。この句は虚子から愛子の様子を聞いた杞陽が想像で作った句ではなかろうかと推察する。  しかしながら、伊藤柏翠と愛子、虚子のこの時期の関係は誠に美しい。敗戦の前後の時期を純粋に思いあった関係が成り立っていたことが不思議だし、日本の文化のそこ深さではなかろうか。柏翠は昭和21年当時36歳、森田愛子29歳、虚子72歳。柏翠と愛子は1939年鎌倉の結核療養所で会い、1942年愛子を追って天涯孤独の柏翠は三国へ行き同居する。虚子は俳句の共通の師という立場である。

昭和俳句作品年表を読む その7

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俗吏とし老いメーデイの列にあり     岸 風三楼 35歳(1910年生まれ)   岸は大阪逓信省に勤めたので「俗吏」と自らのことを言った。ホトトギスを経て富安風生に師事して結社「若葉」運営に尽力した。一時(昭和10年)「京大俳句」に参加していたことから昭和15年に家宅捜査され、逮捕の危機があったが逓信省高級官吏の風生に救われたという事情がある。昭和19年に「若葉」の編集長に就任しているので国内で敗戦を迎えた。前に述べた安住敦は岸と逓信省という職場が同じであった時期があった。昭和18年頃、「旗艦」に参加していた安住敦は官憲の眼を逃れなければならない事情下で、岸を通して「若葉」に投句していた時期があった。ある年齢の国家公務員で国内にいた俳人の敗戦時期はこのようにどこか似ている。正直に言えば少し余裕のある位置にいたと言ってもいいだろう。戦争のことだけでなく俳句のことを、結社のことをいささか考えることができたのである。だが敗戦を機に事情は一変した。官吏と言えども食糧危機は平等であった。メーデーは昭和21年5月1日に第17回として復活した。折からの食糧不足で、皇居前に約100万人集めて「食料メーデー」と言われた。岸がどこでメ―デイの列にあったかわからないが大阪でもデモはあったのだろう。当時は35歳で「老い」と言い得たのだろうか。戦場にあっておかしくない年齢である。徴兵制では17歳か40歳(1943年以降は45歳まで)までが徴兵検査を受けて兵役を課されている。関西大学の渡辺勉教授の研究(「誰が兵士になったのか」社会学部紀要119号)によれば、太平洋戦争の時に700 万人以上もの人が兵士として戦地に行った。そのうち戦死したのは 200 万人近くと言われている。終戦時の日本の人口は約7200万人で軍隊にいた人は 全人口の 18.6%で約1340万人。20 歳から 40 歳までの男子人口 に対する割合では 60.9% にも上ると言われている。 まあほとんどの男子が戦争に行って不思議ではない時代だった。これまで出てきた上村、安住、岸などはこの世代に入る。同じ渡辺の研究によればこの時代は兵隊にとられた方も生活が一挙に苦しくなったようである。  1920年代後半の青年労働者の平均月額給料は平均50円(現在の約20万円)、ところが兵隊の給料は5円50銭で銃後の家庭には9円(現在の約3.